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 防衛装備の不正請求、10年で1,000億円を超える 

 10月4日の朝日新聞によると、防衛装備品をめぐる水増し請求が発覚して、国庫に返された金額はこの10年で1,000億円を超える。麗澤大学の高巌教授によると、「これらはたまたま明らかになっただけで、氷山の一角」とのことである。
 実際は毎年1,000億円あるいは2,000億円が水増し請求されていることになるのではなかろうか。大変な金額だ。 現在毎年2,200億円の社会保障費が削減されているため、後期高齢者医療制度、母子家庭の手当を削るなどの諸問題が生じていることを考えると、怒りをおぼえる。
 この記事の横に社説があり、その見出しは「防衛秘密」である。この社説によると、防衛省はこの程、航空自衛隊の幹部を懲戒免職にした。その理由は、3年前に中国海軍の潜水艦が南シナ海で事故のため航行不能になったことを報じた読売新聞の記事だ。航空自衛隊の幹部が読売新聞の記者に、この秘密情報を伝えたからだという。  
 以上の二つの記事から防衛省は、防衛装備の不正請求が更に暴露されることを恐れて、内部告発を抑えるために、到底、防衛秘密とはいえないことをマスコミに漏らしたという理由で懲戒免職にしたのではないかと思わざるをえない。皆さんどう思われますか。 S生

 特攻産みの親

 福田康夫首相はほとんどの閣僚を安倍内閣から引き継ぎ、または自民党役員とした。安倍内閣は「お友達内閣」といわれ、安倍晋三氏の「美しい国」の思想に同調する者の集まりだった。安倍氏の「美しい国」は、「国を愛する心」が中心にあり、太平洋戦争末期「志願して」250キロ爆弾とともに突っ込んだゼロ戦や、人間魚雷など非人間的な兵器で出撃した、特攻隊がモデルにあることは明らかである。
今年発刊された半藤一利氏の「昭和史探索・6」は、資料中心に編集されており、太平洋戦争の実相が一層明らかになっている。特攻についてはすでにたくさんの本があり、多くのことが語られているが、特攻のことは何回でもえぐって見なければならない。この本もまた特攻の史実によく迫っている。一端を紹介したい。
<特攻生みの親>
 1951年刊の『神風特別攻撃隊』で、特攻生みの親は大西瀧治郎第一航空艦隊司令長官(中将)とされ、定説のようになった。しかし1944年10月19日、大西司令長官がレイテ湾突入作戦に当たり、マニラで関行男大尉ら23人に、「敷島隊」と名づけて出撃を命じるより数日前の10月13日付けで、「神風攻撃隊ノ発表ハ全軍ノ士気高揚並ニ国民戦意ノ振作ニ至大ノ関係アル処」なので、その発表時期を適切にする、との源田実中佐(軍令部作戦課参謀)起案の電文が残っており、この文の中には、すでに「敷島隊」「朝日隊」などの名前も見える。また大西司令長官は命令に際し「山本長官(五十六・連合艦隊司令長官)の了解は得てある」と述べたと記録されている。さらにその3ヶ月前の7月18日(サイパン失陥の翌日)には、「第一特別基地隊の編成改定について」という文書が、天皇の允裁(許可)を得ている。つまりは敗戦が決定的となる中で、武器兵器も無くなったため、人間の肉体をそれに変えて抵抗を続けようという、日本軍中枢の方針だったのである。それは大本営の「全軍特攻」「一億玉砕」となっていく。何を守るために? それは国体=天皇制であった。
<「志願」による>
 第一号の関大尉は従軍記者に次のように語ったという。「わしは天皇陛下のおん為とか、国のためとかで行くんじゃないぞ。わしは最愛の妻のために行くんだ。もし日本が負ければ妻がアメリカ兵にやられる・・・・」(彼は新婚だった)。軍では特攻は正しい用兵ではないことを心得ていた。大西司令長官などは最初「特攻は統帥の外道だ」といっていた。したがってこれを正規の部隊行動としては認められない。なぜなら、軍隊は天皇の軍隊であり、非道があってはならないからである。そこで「志願」という形を取って、天皇にはかかわりがないとしたのである。「志願」が強制だったことはいまや定説であるが、次のような記録も載っている。1945年4月2日、知覧基地から沖縄へ向かって飛び立ち、徳之島で中継中グラマンに襲われ、飛行機もやられた生き残り5人が、板付基地へ帰ったところ、「この腰ぬけども、貴様ら命が惜しくてのめのめと帰ってきたか」「特攻隊なら帰ってこないはずだ。貴様ら特攻隊のツラ汚しだ」と、監禁され青竹で暴行を受けた(高木俊朗陸軍従軍記者の手記)。美化、賛仰でごまかしている特攻隊に、帰ってこられては困るのであった。しかし恐ろしいのは、純粋に国を思って「志願」した青年もたくさんいたという狂気の状況である。
<戦後の司令官たち>
 安倍晋三氏の祖父、岸信介氏など戦争犯罪人が、戦後完全復活し政治の中心を握るといったことが、今日の日本の政治状況の原点をなすわけだが、司令官たちはどうだったか。
 大西司令長官の命により、第一号関大尉を隊長に指名した副長玉井浅一中佐は、戦後仏門に入り、念仏に明け暮れた。一方特攻生みの親の一人とされる源田実氏は、自衛隊に入り航空幕僚長にまでなり、その後参議院議員四期。自民党国防部長などを歴任。国防族のドンとして防衛・憲法問題に取り組んだ。東京大空襲に代表される無差別爆撃戦術の考案者、カーチス・ルメイの叙勲を推薦(航空自衛隊創設に際する功績)、ルメイは勲一等旭日大綬章を受章。第二艦隊参謀として、直接戦場で指揮した大谷藤之助という人は、戦後靖国神社の事務総長を経て参議院議員を四期やった。大西瀧治郎中将(終戦時軍令部次長)は8月16日割腹自殺。

 半藤一利氏:元文芸春秋編集長
       漱石に関する著作があるが、奥さんは夏目漱石の孫。
       「憲法九条は守るべき」といっている。
       「昭和史探索」・6 ちくま文庫 950円+税

                                           小川 O生


 9条あってのこと

 私の教員人生の中で、町田市の南地域は大きな比重を占めています。教員になる際、私たちは「憲法、教育基本法を守ります」と誓いました。まがりなりにも教え子や、我が息子たちが戦場で血を流すことなくすごしてきたのは9条あってのことです。
 何よりも大切なものとして、私も皆さんと力を合わせていけたらと思います。

                                      下小山田町 MK

 

  憲法九条があぶない

 5月1日、第78回メーデーの代々木公園会場で全労連坂内三夫議長は、憲法九条を改悪して再び海外で戦争をする国に変える攻撃が目の前に迫っていると指摘、「疲れた体を引きずり出してでも闘うべき時だ」と訴えました。

 私はその言葉を聞いて、愕然としました。九条を守ることがここまで追いつめられているのだ。漫然と「九条を守る」といっている時ではないのだと。そして、太平洋戦争を生き抜いてきた私たち老人は、じっくりとあの時代を思い出し、再び戦争をしない国にするために、自分の持てる力を出すことは責任であると思いました。

                                      つくし野 78歳 Y子

 ひとり分の思いを私らしく

 ここ半年の間に、九条についていろいろな方が触れていらっしゃることを知りました。
 タレントの太田光さんは中沢新一さんとの対談を『憲法九条を世界遺産に』という本にして出版されました。
 また、私は単純にお金持ちの財界人は、お金儲けが出来る戦争をしたがっていると思っていましたが、経済同友会の品川正治さんは『戦争のほんとうの恐さを知る財界人の直言』という本で、「平和憲法を持つ国として力強く歩んでいくこと」を語っていらっしゃいました。
 そして、ラジオ第二放送の英語番組「ものしり英語塾」の講師のお一人である大杉正明先生も一、二月の番組で、「日本国憲法を英語で読む」というテーマで日本国憲法の人権に関する条文・九条・憲法前文を扱っていらっしゃいました。
 官報の英文を読み、英文を分かりやすく解説しながら日本語訳をするという番組で、賛成反対の立場に関係なく英語の教材としての学習でしたが、難しい憲法条文も、英文から易しい日本語訳にすることで、かえって理解できたように感じました。
 こんな風に、いろいろな立場の方が、九条のことに触れていらっしゃることを知ったことはとても新鮮な驚きでした。

 私は戦後生まれなので戦争がどんなものかは知りません。
 両親から聞かされた戦争の話は、空襲の恐ろしさが中心だったので、戦争というと自分が恐い目にあうものという印象がありました。
 しかし、日本の国が攻撃されなくても、よその国に行って戦うことも戦争です。
 英国で暮らした時は、交通事故のようにテレビのニュースで戦死者の報道がされていました。
 平和な日本でも、交通事故死や悲惨な殺人事件のニュースを耳にし、また、その被害者の方の声を聞くにつれ、理不尽に命を奪われることのつらさは想像に絶するものがあります。
 この上、自分の意思に関係なく、命令によって誰かの命を奪うことを仕事にしなければならない人が出てくるなんて、そして、自分の意思に関係なく命が危険にさらされる人が出てくるなんて、本当につらいことだと思いました。

 「国権の発動たる戦争」「国の交戦権」を禁じている今の九条を守り、次の世代にバトンタッチしていくことが、私にはとても大切なことに思えるようになりました。
 永遠に続くように感じていた「憲法九条」ですが、近頃のニュースを見ているともう瀕死の状態です。
 ちっぽけな私だけれど、健康に恵まれ、時間的にもゆとりがある私に出来ることはないだろうか?
 「南地域九条の会」に入って会費を払うほかに、もう少し自分にも出来ることがありそうだ。
 そんなことを考えながら、まず、成瀬駅でのニュース配布の活動に参加することにしました。

 初参加の日、通勤・通学で忙しい朝の時間ですが、こちらからお渡ししなくても積極的に受け取ってくださる方がいらっしゃったことを、とても嬉しく感じました。
 このニュースを、毎回読んでくださっているのだなあという思いと、二年間も続けることは大変なことだったと思いますが、地道な活動の大切さもわかりました。
 批判的な読者の方もいらっしゃると思います。そんな方も含めて、みんなで私達がおかれている状況を知り、穏やかで平和な日々がずっと続くにはどうすればよいのかを考えていけたらいいなあと思いながら、この活動を続けていきたいと思っています。

 「くまの子ウーフ」(神沢利子作)という私の好きな童話の中で、ウーフのお父さんが、ウーフに

「ねずみはねずみ一ぴきぶん、 きつねはきつね一ぴきぶん、 はたらくのさ。
 だれのなんびきぶんなんかじゃ ないんだよ。
 おとうさんはくまだからくま 一ぴきぶん。
 ウーフなら、くまの子一ぴき ぶんさ。
 みんなが一ぴきぶん、しっか りはたらけばいいんだ。」

と語りかけています。

 私も、ちっぽけだけれど、ひとり分の声をあげていこう。

 日本という何か大きなかたまりがあるのではなく、私たちが毎日暮らしているこの国の主権は、私達一人ひとりにあり、一人ひとりの小さな思いが集まって、私達の暮らし方は決まっていくと考えるからです。

                                                                      藤田ヨシエ


 アーサー・ビナードさんの講演を聞いて

 10月29日、第2回町田南地域9条の会総会と「平和を願う文化の集い」が開かれた。
 講師のアーサー・ビナードさんは日本で活躍する有名な人だが、巨体のアメリカ人という予想に反して、日本人と変わらない体格で、非常に穏やかな人懐っこい方だった。
 自著の書籍を持ってきて「サインもしますよ」と快諾すると、周りの人とすぐににこやかに話しておられた。非常に物怖じしないきさくな人柄でほっとする。
 演壇での話し声がロビーまで聞こえてきたが、その穏やかな話ぶりは憲法をかたる語り口とは恩えない。しかし、その内容は多岐にわたり、話が尽きない様子だった。
 私は為政者が美辞麗句で本当の狙いを隠しているという事例を、日本の場合とアメリカの場合の例をあげて話しておられるあたりから少しずつ聞いた。
 その中で、ひとつのことを承認したことで、取り返しのつかないことになってしまう。例えば「国防は必要だ」とか「テロからの防衛」ということを政策として認めてしまうと、戦争もテロもないかもしれないのに軍備のために予算がつき、そうなると軍需産業の利益追求のために軍拡は止まることがない。困るのは国民で、増税や兵役などを負わされる。
 アメリカでも、軍隊には貧しい国民がかりだされている。日本には日本国憲法第9条があるので、軍事予算の負担から守られている。この日本国憲法を、「古い」という箱の中に入れ、「新しい憲法だ」という箱と取り替えれば、憲法は変わり、われわれ国民が危ない、暮らしや平和が危ない。
 われわれ国民は、耳障りの良い美辞麓句の箱の中に、何が入っているのか知恵を働かせて見抜き、批判すべきことは批判するのが真の愛国心だ。
 愛国心は多様だ。自分の国に対する愛は溺愛ではなく、批判的な愛国があっても良い。 今取り上げられている愛国心は、狭い愛国が重視されている。ストーキーな愛国にならないらないために「多様な愛国が必要だ」など、印象深く心に残った。
 ビナードさんは、ご自分とわれわれ国民をアメリカ南部黒人の昔話に出てくる“ザリガニ”にたとえて、弱者であっても知恵と連帯で困難な問題も乗り越えられる希望を、静かに熱く語り、私は感銘を受けた。前半を聞き逃したことを残念に思う。

                                              K.S


 平和の宝物を次の世代へ

 前の総理大臣がこんなことを、言った事がありましたね。
 「昔は、夕食は、お膳を囲んで、家族みんなが揃って食べたものだ」と。
 私は、あきれて、しばらく言葉も忘れるほどの思いでした。
 たしかに、家族揃ってお膳を囲む、ささやかで、平和な日本の庶民の暮らしがありました。
 私の子供の頃の朝は、父、母、妹、そして私の家族全員が揃って朝食をとり、それから父は職場に、私たちは学校にと、そんな普通の日々がありました。
 ところが、その普通の生活が、ある日突然なくなってしまったのです。それは、あの戦争のせいでした。
 私達は、あれよ、あれよという間に、為政者達が勝手に始めた戦争に巻き込まれていったのです。
 私10歳、妹8歳、ふたりは父母と離れて、父の田舎である四国の丸亀に疎開したのです。 親戚の家の離れでの生活でした。
 今思えば、それをさせた親も、私達も、よくやったと思います

 8月6日のあの日の朝、私たちは親戚の人達と一緒に、広島のそこだけが不気味に黒くなっている空を見上げました。
 私たちが住む丸亀は、瀬戸内海をはさんで、丁度向かい側が広島だったのです
 今でも、あの黒い闇のよう空を忘れることはありません。
 原子爆弾が、この地球に炸裂した瞬間だったのです。
 新型爆弾が広島に落ちたらしいと、大人達がうわさしあっていましたが、12歳、女学校2年生の私には何も分かりません。

 暑い、暑い真夏の日。
 私達は校庭で、薙刀の稽古をしていました。
 昼ごろ、興奮した上級生が走り寄ってきて云いました。
 今も、耳に残っています。 「皆んな、もうそんなことやらんで、ええんで。戦争終わったんで!」と。
 私達は、ただ呆然と立ちすくみました。
 それが、私の8月15日でした。

 日本、ドイツ、イタリアの侵略戦争は、2300万人以上の尊い人々の命を奪いました。
 そして、日本国憲法は生まれたのです。
 教え子を二度と戦場に送らないとの誓いは、教育基本法の柱になっています。
 この平和の宝物を、次の世代に引き継がなければならないと決意しています。
                                          森 一江

 北朝鮮のミサイル発射に思うこと

 七月五日、北朝鮮は日本海に向けてミサイルを発射した。
 発射についての兆候は、それ以前からマスコミで取り上げられ、拉致問題の報道と相まっ
て重大関心ごとであったことから、国民を一気に熱くさせた。
 今、国民の中に北朝鮮への制裁強化の要求と先制攻撃論が台頭し、改憲論の勢いも
増したように思われる。
 しかし、私たちは今、北朝鮮の脅威について冷静に見つめ、危機感を煽る安全保障論
が、安易なナショナリズムに陥りやすい危険性を認識しなければならない。
 何故、北朝鮮はこんな事をするのだろうか?
 北朝鮮の現況を見てみよう。 北朝鮮は1980年代に、石油、電力不足、技術停滞な
どにより生産力が著しく低下した。
 さらに、1990年代に、肥料・農薬の不足や農業政策の失敗により、農産物の生産が
落ち込んでしまった。
 又、水害、干ばつなどの自然災害も加わり食糧不足で飢餓状態にある。
 このような困窮を救ってくれていたのが、中国、ソ連であったが、中国の天安門事件、ソ連
の崩壊により、政治的にも経済的にも大きな後ろ盾を失ってしまった。
 そして、我が国のバブル崩壊の打撃も加わり、北朝鮮の現況は破綻的といっても過言で
はない。
 このような中で北朝鮮は、国際社会からの支援に頼らざるを得なくなったのである。
 北朝鮮はこの支援要請を達成させるため武力衝突と平和攻勢の戦略を交互に組み合
わせ、国際社会に対して朝鮮半島の緊張状態と関心を常に維持させようとしているのだ。
 北朝鮮の正規軍は陸軍95万、海軍4〜5万、空軍11万といわれ、その主力は38度
線から100キロ以内で韓国と対峠し、装備も旧式であり日本本土にまで侵攻するだけの
能力もない。 又、北朝鮮の軍事費は公表されている数字では14億ドルであるが、核弾
頭ミサイルを開発し続けるには膨大な軍事費が必要であり、この国の国民総所得208億
ドルの相当部分を費やし続けねばならなくなり、自国を疲弊させてしまう。
 国連安全保障理事会は7月14日、北朝鮮のミサイル発射についての非難と開発計画
の全面停止、既存のミサイルの発射凍結、六カ国協議への即時復帰を全回一致で採決
した。
 今、最も大切な事は、北朝鮮を国際社会の一員として六カ国協議のテーブルに着かせ
るべく、各国が一致協力することである。
 国際社会における日本の役割は何なのだろうか。憲法を改正し軍隊を海外に派兵する
ことか。 アメリカ流の正義を他国に押しつけることか。いや、決してそうではなかろう。
 戦後61年、アメリカ、ロシアに次ぐ軍事費を持つ日本が、憲法九条の制約があったからこ
そ、他国に出かけて一人の人も殺さなかった。このことは、世界に向かって誇るべき事と思う。
 今、やるべき事は憲法九条を護りぬくことである。
                                              S.Y

   戦争とは

 私が子どもの頃、叔母の夫である叔父は、戦地から性病でめくらになって復員してきました。叔母は洋裁で生活を支え、帰ってきた叔父と二人で暮らしていました。
 食事の時は、おかずの一つひとつを「ここですよ」と教え、内風呂もなかった当時は、お風呂屋の男湯へ連れて行っていました。 お手洗いは、時々 びしょびしょ ≠ナした。
 叔母の家に遊びに行った私は、子どもの目でじーっとそれを見ていました。
 叔父の脳が梅毒に侵されてきた時、叔母は姑に叔父の財産はどの位あるのかと聞いたそうです。そうしたら、財産を狙っていると云われ、離婚に追い込まれました。
 その後、叔父は、実家の牢の様な処に入れられ、叔母は子どももなく、残りの人生を独身で過ごして終わりました。
 戦争というのは、このような形でも人間を不幸にするものだと、憲法九条改悪にあたり思いを深くしています。 
                                                                               つくし野 實川好子

   ブッシュさんへのお土産

 小泉首相は、「米国産牛肉の輸入再開」や「米軍基地再編の閣議決定」などのお土産を持って、ブッシュ大統領との首脳会談に出かけていった。
二人が微笑みながら握手しているテレビの映像や新聞報道が賑やかになることだろう。そして「世界の中の日米同盟」を自画自賛する二人の言葉がテレビや新聞の活字となって、私達の脳裏に焼き付けられていく。小泉劇場の対米追従劇のクライマックスシーンである。私達はこの事について冷静に考察しなければならないのではなかろうか。 ここでは「米軍基地の再編」について考えてみたいと思う。 
 第一軍団の司令部を在日米軍司令部があるキャンプ座間に移転させることである。米陸軍第一軍団は過去には日本の占領にも従事し、その後の朝鮮戦争にも参戦し、司令部をプサンにおいたことがあった。現在はワシントン州に司令部と部隊が置かれている。この軍団の特徴は展開スピードを重視した部隊で歩兵師団のトップランナーの役目を担っている。イラク戦争では、その第一陣が僅か1日半でクエートに集結するほどの即戦力を有した軍団なのである。そしてこの軍団はアメリカ太平洋軍の指揮下にあり、この太平洋軍の責任範囲は、米本土の西側からアフリカの東海岸にまで及ぶ守備範囲なのである。又、太平洋軍は横須賀の第7艦隊と沖縄に司令部を置く第3海兵遠征軍を傘下においている。今度の米軍戦略の変更では、この第3海兵遠征軍の司令部をグァムに移転させる事も含まれている。この事は正しく太平洋軍の再編成に他ならないのではなかろうか。アメリカ西海岸からアフリカの東海岸の広範囲で勃発する紛争(文明と人道を守るためのアメリカの戦い)に即応しスピーディに展開させるための再編なのである。
 この6月にはグァムで冷戦後としては、かってない程の米軍の大演習が行われ、即戦対応能力が訓練されたとのことである。このグァム基地には、B2ステルス攻撃機の配備が予定され、又特殊奇襲部隊を乗せた潜水艦部隊の編成も計画されている。さらに、第7艦隊には原子力空母が配備され横須賀を母港化することも決定している。
 このように見てくると、在日米軍の2面性が見えてくる。日米安保に基づく防衛軍としての顔と太平洋全域とインド洋を守備範囲とした米太平洋軍としての顔とである。 この後者の顔は日米安保の極東条項を逸脱していることは明らかであろう。先の第一軍団司令部の座間移転は、在日米軍の2面性をおおっぴらに進めようと言うもくろみなのである。
 他方、米軍の再編に伴う日本の対応は、第一軍団司令部が移転してくる米軍座間基地に、新たに新設する即戦対応部隊を併設し、米軍と一緒になって「文明と人道を守るアメリカの戦い」にいつでも参戦できる体制にすること。 沖縄の米海兵隊の移転経費を負担すること。在日米軍基地の機能の再配備を受け入れること等を国民への説明なしに閣議決定し実行に移す計画を着々と進めている。沖縄の海兵隊8000人のグアムへの移転ばかりが強調されるが、その実体は先の第3海兵遠征軍(編成最大要員18000名、現在の駐留人数1万2千数百名)のうち司令部要員の2千数百名に過ぎず、実戦部隊の1万人余りはそのまま駐留し続けるのである。移転経費は7000億円と言われているがアメリカの担当者が言うように3兆円に膨れ上がることが容易に想像できる。私達は先の湾岸戦争の戦費負担がアメリカの要求に応じて膨れ上がっていった事も記憶に新しい。
 小泉内閣になつてからの対米追従一辺倒政策は、日米安保の枠をはるかにはみ出してしまったのではなかろうか。私達は小泉劇場の幕引きに当たって、日米安保運用のを問い直しと米国追従の軸足から、アジアとの関係にも視点を置きながら新たな関係(対米及びアジアとの協調関係)を構築していかなければならないと思う。私達は今まで以上にしっかりと注視していこう。                                        
                                       06.6.28 S.Y 
 九条の会 結成ありがとう

 私が十六歳の時、日本をはじめアジアの多くの人々を犠牲にした太平洋戦争が敗北のうちに終わりました。
 この戦争で、大好きだった兄は、台湾の山の中で、食べ物はカエルとヘビだけという栄養失調が原因で、二十三歳で戦病死しました。
 戦争の終わったある日、私は独りぽつんと誰もいない家の中で、「大人が戦争を起こしてこのような世の中にしたのだ。自分が大人になった時、決して戦争のある世の中にしてはならない」と心に誓いました。
 それから六十年の歳月が流れた今、憲法九条が改悪され、やがて徴兵制が敷かれかねない不安な日々が続いているのに、私は平和のために何かしなければと思いながらも、何もしていない自分が空しく感じられていました。
 そのような思いでいた昨年五月、“日本を再び戦争をする国にしないため ”の「町田南地域九条の会」結成の呼びかけを受け、私は一も二もなく参加しました。
 この「会」の中で、私の平和への思いを生かすことが出来れば幸いです。
 「九条の会」・ありがとう。
                                                   つくし野 實川好子

詩・風よ!
                                 吉村悟一

葦9本が風を揺らした
最初はわずかな揺らぎ
それは余りにも静かに
でも 誰もが風を待っていた

雲が稜線に湧いてきた
誰も気にもかけてはいない
太陽の暑さをしのぐ程よい翳りと
雲が色を重ね迫ってきた
何かを予兆させた

あなたも聞いたことあるでしょう
一枚の赤紙が
暗雲の彼方に男を連れ去った昔を
誰もが口をふさがれ
自由をむしりとられ
炎が町を焼き尽くし
家族を涙にくれさせ
命をないがしろにされたことを

この黒雲はただ事ではない
葦9本は音をたてて風を揺らした
風は町や村を駆け巡った
草の根を揺らし心の扉を叩いた
風は森を走り
山を揺らした
大地よ!
全てのものよ 目覚めよ!と

黒い雲は正体を現した
身だしなみを整え
正義面をして
靖国神社を従えて
死者の歴史を繰り返そうと
準備周到に 居丈高に
今こそ風よ 吹け!
力をためてどっと吹け!

傷口を癒す風などいらない
家族を紙くずのように引きちぎり
妻や子どもに涙をふらす
黒い雲は吹き飛ばせ
アジアの空をくもらせるな
澄み切った青空を取り戻せ
風よ 吹け!
時代を見据えて吹き続けよ
風よ! 風よ!


 「輝け九条!歌とトークのつどい」に参加して

 身近な所でこのような集いに参加出来るのは素晴らしいことでした。
 それぞれの方の憲法に関わる話しも味わい深いものでした。
 中でもゴスペルの鈴木さん、コーラス「和(なごみ)」、そして、参加者を小学6年生に見立てた憲法教室は心に残りました。
 私は定年後、個人加盟の「銀行産業労働組合」でお手伝いをしております。
 職場に憲法を≠フ言葉があるように、職場の中での人権侵害はなかなか外からは見えにくいものです。
 この組合は、国際人権活動日本委員会を通じて国連活動(NGO)もしております。
 昨年はジュネーブ欧州国連本部の人権小委員会で発言が許され、外資系企業「AIGスター生命」での嘱託事務員解雇事件を国際世論へ訴える機会が訪れました。
 国連活動を通じて人権宣言、国連憲章、そして自由権、社会権、子供の権利条約などにふれるうち、日本国憲法にはそれら全ての精神が生かされているのに気がつきました。
 特に9条があることこそ、国際社会の中で最も誇るべき宝物だと思います。
 私達は生活の中で、職場の中で、「九条守れ」の声を出していく必要を、今日また新たに致しました。
                                            つくし野 大谷

 北朝鮮から

 私は昭和21年10月、北朝鮮からの引き揚げ者です。乞食同様に一瞬にしてなり、これでは生きることができない悲しい生活をしました。
 でも、昭和26年10月、国家公務員の試験を受け、39年間で定年退職をした次第です。
                                            つくし野 女性

 「欲しがりません、勝つまでは」の少年でした

 昭和6年生まれの私は、昭和16年の太平洋戦争時小学5年生、昭和20年の敗戦時中学3年生。その間、天皇や日本国のために命を捧げることを教育され、日本はアジアに君臨するものという天皇絶対、国家絶対の教育を受け、「欲しがりません勝つまでは」の合い言葉で軍事教練、農産動員、工場動員そして少年飛行兵を受験する様でした。
 敗戦時、すべての生きる目標をなくして、荒れ狂う状態。そこから新しい憲法のもと、国民主権、基本的人権を守る、平和を愛し人の命の尊さを知り、新しい日本へ希望を持てました。
 しかし、戦後60年のこの頃、憲法や教育基本法の改悪や、自衛隊を軍隊にする動きが早まってきて、戦前復帰の感を持ちます。
 日本だけではなく、アジアや世界の平和のため、この動きを阻止し、民族、宗教、国家の対立を乗り越えて共生できるように、憲法の日本や世界への実現化に努力することが大切と痛感します。
                                              篠原 敬


 母から教わったこと

 今夏、13歳の息子と江東区の東京大空襲資料館に赴き、また、私の母が3月19日から10日に火の海を逃げた道を一緒に歩いてきました。なぜなら、60年前の3月10日は母の誕生日であり、今の息子と同じ13歳だったからです。
 私が親から戦争反対、平和希求を教わったように、これからは私たちが、こども達に伝えていかなくてはならないと思います。
 30代、40代の私たちが、目の前の生活不安などで目をくらませられることなく、しっかり護憲を訴えていきましょう。
                                            にしざわあつこ

 平和を求めて

 人が与えられてある環境を守る使命があるはずです。整った環境があるでしょう。しかし、困難の中から求めて整えていくことで、与えられ続けていく環境があることも現実です。
 私たちは、この求めて、人が整え続けていかなければならない平和の環境を、この九条を守ることで、訴え続けていかなければならないと考える者です。
                                              増田よしか

 
  無くなったいた弁当

 九条を変えて戦争を・・・・・・・・・・・とんでもないことです。小学生時代、私の住んでいた東北は、多くの疎開児を迎え入れていました。昼食の弁当を持ってくる子は少なく、新聞紙を広げるとサツマイモが一本、コロンと出てきたとなりのA君。大掃除の時、カバンを廊下に出しておいたら、私の弁当箱が無くなっていた。B君が盗っていたらしい。先生がわざわざ弁当箱を開けて、みんなの前で確認。我が家も貧しかったので、おかずは恥ずかしいものであったが、丸ごと入れてあったナスの漬け物が一つ無くなっていた。全て戦争の犠牲者です。
                                               東北人

平和のプレゼント

 憲法九条って、一体どんな内容なの、と聞かれる。
 老婦人は戦争体験者で、父親は憲兵をしていた。当時の事を話題にして、戦争、終戦後の話をして下さる。
 戦後生まれの私は、こちらから歴史観、耳学問、戦争体験者の話など、老婦人が予想もしていなかった事を語る。
 まるで見てきた人のようだと思いながら、今までそんな事聞いたことがない、誰もそんな話をした事がない、読書が好き、歴史が好き、絵も好きだが80歳を過ぎて憲法九条なんて知らないと正直に話され、「日本は戦争に負けて良かったんだよ」「アメリカのお陰で平和になった」と思っている。
 ずっと、日本の大罪を知らずに生活してきたのだ。安保の事、民主主義、そんなこと深く思った事もなく、子育てし、生活していた。
 それでも、子どもの頃は優等生で、級長をしていたと自慢話もして下さる。
 本当の意味での終戦を、子らや孫たちにプレゼントしたいなら、当面憲法九条を伝え、守る事が方法だと信じている私の立場を、話をすることができた。
 戦争を体験した人にこそ、活動してほしいという事。イラクのことなど、テレビだけで、日本人は語りたがらないようだ。沈黙は金だつた時代は、何も伝わらない。今更ながら、教え合い、学び合う事の大切さを痛感しています。
 けっして優等生ではない私の事。どこかに大きな間違いがあるかもしれない。まだ気づいていない事が沢山ある訳で、いつの日も、真実を求めて生活していこうと思って守る会、九条の会に入会した、それが良かったと思えたら最高です。
 家族での話し合いも大切な事で、理解し合えたらと思います。身近な人と語り合ううち、平和は見えます。
                                                                                                  民子
(筆者は右手が不自由で、左手で書いてくれました。思ったことを満足に書けないといっていますが、そんなことないと思います。管理人)
 
  
 アメリカでの会話

 8月16日から9月15日まで、アメリカで暮らす息子のところへ行ってきました。1ヶ月あったので、嫁の親戚などとも少し話が出来ました。通訳役を介してのことで、十分理解し合えた
とはいえませんが、日本の選挙のことなども話題になりました。
 一部を紹介させていただきます。

 嫁は30歳の小学校教師です。自分の夫の国には関心があるけど、あまり知らない状態
です。
 その嫁と日本の憲法の話をすることがありました。彼女は「日本の憲法はアメリカ人が作ったらしい」、ということを知っていました。
 私は不自由な言葉で、「誰が作ろうが内容が問題」などといった上で、「ベアテ・シロタ・ゴードンを知っているか」と聞きました。
 GHQにいた当時22歳の女性が、日本国憲法に男女同権を盛り込むのに、大活躍したという事実を紹介したのです。
 嫁はベアテのことは知らなかったけれども、第二次世界大戦の前には、日本女性に選挙権がなかったことは知っていました。私たちは、「このことは嫁はアメリカ人として誇りに思えるし、私は日本人として日本国憲法を誇りに思う理由の一つだ」、と話し合いました。

 お城のような親戚の家を訪問したときのことです。この家は熱心な共和党の支持者で、「ウィサポート ツループス(軍隊支持)」のリボンを、車に貼り付けているような人たちでした。
 そこの奥さん(嫁のいとこ)に、「今のアメリカをどう思うか?」と聞かれました。私の妻は「イン
ドネシア地震の救援や、科学技術など、とてもすぐれているけど、戦争をするのはよくない」と
いい、私は「今のアメリカは一国主義ではないかと危惧する」、といいました。奥さんは「私た
ちのようないいアメリカ人がいるのに、政府が戦争をするから世界から嫌われる。困ったものだ」といいましたが、その後に「でも私たちの政府だから、私たちは支持する」とも言ったのです。
 そして帰り際には、私の息子に「あの人たちは考えを是非変えてほしい」といったそうです。
 上の会話のとき、嫁の父親が私の隣にいましたが、核兵器をどう思うか、ということを言い出しました。
 ほかの人たちの意見は分かりませんでしたが、彼は「決してよくないものだけど、廃絶は技術的にとても難しい。いま現実にある事実の上に生きていくしかない」、といいました。
 私は「ヒロシマ・ナガサキを経験した私たちには、とてもそうはいえない」といいました。これ
には反論はなく、「そのときどこにいたのか?」などと質問があり、私の妻が「鹿児島で子どもだったがナガサキの煙を見たような気がする」というと、ぐっと説得力的な雰囲気になりました。
 「ワン アメリカ(9・11写真集)」を私たちに見せた、嫁のおばも「9・11」の話を持ち出すことを、もうしませんでした。これ以上は言葉と時間に阻まれると思ったのかもしれませんが、親戚同士としてはお互いこの程度の交流が、賢いことだったのかもしれません。

                                          鬼塚希代仁

 ひとりごと

 厳しい残暑が続く中、小泉さんが仕掛けた総選挙に、国民は輪をかけたように更に熱くさせられてしまった。
 郵政法案に賛成か反対か。改革を進めるのか、とめるのか。この単純な声高な主張に民衆は興奮し、陶酔させられてしまったのではなかろうか。それは、あたかも集団催眠術にかけられてしまったようであった。
 先の大戦の指導者たちは、無知で狂気じみた、大東亜共栄圏の建設という妄想で国民を陶酔させ、国全体が興奮、高揚し一気に侵略戦争を拡大させていったのである。
 為政者たちの戦略の欠如と無知、錯誤が、残忍で非人道的、外道きわまる特攻作戦や大勢の住民を巻き込んだ悲惨な沖縄戦を押し付け、その行き着いた先が広島、長崎だったのである。
 私たちが、この戦争の歴史から学んだ事は、国権の乱用と暴走が国を敗亡させたこと、それから大戦で犠牲となった人達、犠牲を強いられた人たちに対して、二度と同じ過ちは繰り返さないぞと、深く悔い悟ることであった。それは、主権在民、戦争の放棄と国際平和主義の憲法前文の理念に他ならない。
 しかし、年が経ちにつれて悔悟の念はだんだん薄れ、自分の尺度でしか物事を見る思考様式が頭をもたげ、歴史認識、教科書問題、改憲の動きまで加速されようとしている。
 私たちは、為政者たちの催眠術的な主張に感動し、迎合することの恐ろしさを戦争の歴史から学び深く肝に銘じている。多大な犠牲をはらって創ったこの国のかたちを、わずか60年で簡単に捨て去るわけにはいかないのである。
 先達者たちから受け継いだ理念をきっちりと守っていきたいと思う。

                                     2005.9.20  S・Y
  知覧で思ったこと

 この夏、九州へ旅した折に知覧に立ち寄った。
 鹿児島中央駅に降り立った昼下がりは、太陽がギラギラと照りつけ真っ白な積乱雲が眩しかった。ここから乗合バスで知覧に向かう。
 バスは薩摩湾を左に見ながらしばらく進み、やがて薩摩台地を緩やかに上り下りしなながら、後岳の峠を下りおりて知覧に入った。知覧は薩摩半島の南部中央に位置し、南は太平洋に面している。
 江戸時代は薩摩藩の外城が置かれ、麓(ふもと)武家集落が形成されていた。今も武家屋敷群が残り、西郷、森などの各氏の麓庭園が国の名勝に指定されている。
 母ガ岳を借景とした屋敷群の整然とした佇まいは、落ち着きと歴史の風格を備え、薩摩の小京都といわれる所以である。
 昭和17年、太刀洗陸軍飛行学校、少年飛行兵、学徒出陣の特別操縦見習士官らが訓練を重ねていたが、戦況が緊迫した昭和20年、本土最南端のこの地に特別基地が置かれた。沖縄決戦の際、特別攻撃隊員はこの基地を飛び立ち、爆装した飛行機もろとも肉弾となって敵艦に突撃していったのである。
 飛行場の跡は茶畑になりて、その先は松ヶ浦の海岸につながる。特別基地の面影をとどめる物は給水塔のみであるが、戦没していった隊員の遺影、遺書、遺品が特攻平和会館に展示されている。特攻隊員たちの眼差しが柔和であり、どの遺影からも、死を目前にした極度の緊張と悲壮感は感じらない。出撃前に仔犬と遊ぶ17歳の隊員たちのあどけなさ、ノートの切れ端に必沈と鉛筆書きされた遺書に涙をさそわれた。
 少年たちを一途に熱くさせたものは何であったのだろうか。隊員たちの熱き心の底からの叫びは何であったのだろうか。帰りのバスを待つ間、特攻機を見送ったであろう開聞岳に問い掛けてみた。開聞岳は真夏の積乱雲に遮られて眺めることはできなかったが、私に静かに語りかけてくれた。俺たちは、戦争の無い平和な日本の礎になる事を信じて飛び立つのだ。
 決して、同じ過ちを繰り返してはいけないぞ、という彼らからの叫びのように聞こえてならなかった。
 戦前の教育と社会の仕組みが、国民一人一人の意志や行動を厳しく抑え付け、戦陣訓の教えや治安維持法と特高警察によって国民を戦争へと縛り付けていったのであった。
 敗戦後、戦争へと駆り立てていった指導者たちは、踵を返したように責任を他者に押し付けて隠棲し、国民総懺悔のなかで責任を埋没させていったのである。彼らは、青年達の死が何であったのかという史実の重みを語ろうとしなかった。
 終戦から60年、巷には、歴史教科書や憲法改正の論議がマスコミを賑わせせるようになった。「過去の忌まわしいことを忘れて未来志向で行こうじゃないか」、「世界に貢献している日本を堂々と世界に認知させよう」、「いつまでも日本を自虐的にとらえず、それから脱皮しようじゃないか」、という声が大きく聞こえてくる。日本とアジア近隣諸国との関係が今までになくギクシャクするようになってしまった。何か異様なものが感じられ、いつかきた道に逆戻りしているように思われる。
 未来志向の親善平和と世界貢献が日本が進む道だと強調しても、過去の過ちと反省が言葉のみで言動が伴わなければ、未来志向は単に過去を忘れることに他ならないのではなかろうか。
 若者たちよ、過去の史実に目を逸らすことなく多くの事を知ってほしい。そして、その史実からの叫びに耳を傾け、学び取る勇気を持って欲しい。
                                  
                                              平成17年8月5  S.Y

  今、私達ができること

 横浜の「九条の会」(の講演会)に参加し、あの熱気に勇気をもらいました。過去から、私を含め、日本人全体が、何を学んできたのか・・・?と思います。
 平和を願って、望んで、死んでいった人達に、今、私達ができることは、彼らのいた暗い時代にもどることではなく、今ある平和を、9条を、守り続けることだと思います。
 「想像力」を失っては、いけないと思います。
                                 
                                              南成瀬 M・T

  靖国参拝と田んぼの畦豆

 つい最近の新聞の言葉が頭に残っています。小泉首相は自分の信念で靖国神社へ行っているが、隣国の人が嫌がっている。隣の人が嫌がることはやめた方がいい。どうしても行きたいなら、夜こっそりと、それ位は許してくれるだろう。
 また、その次の新聞のたとえも面白い。田んぼの畦の大豆は年貢がかからず、人の所得税の控除のようなものだったのかもしれない。でも、今は畦豆もほとんどなくなった。
 豆類は空気中から吸収した窒素を天然の肥料とし、周りの植物に供給するらしい、というのも面白い。
                                 
                                         M・H

  人まかせにできない大切な命

 去年、17才の従弟が交通事故で亡くなりました。母子家庭であった母親は、もう二度と逢えない子を呼びながら、今でも毎晩涙がとまらずに過ごしています。
 「こどもを守っであげてね」と、彼女から私と息子へ、先日、電話で、メッセージを受け取りました。
 「命」というあたりまえに目の前にあったものは、一瞬で不確実なものだった、という現実を突きつけられました。
 平和といのちを守ることは「あたりまえ」であり、また「そうあるべきこと」です。
 憲法九条は60年間、日本の平和を守ってきました。
 しかし、あたりまえの話は、「普通の話・並の話」として扱われることもあります。
 「戦争はイヤですよ。あたりまえじゃないですか!」と、テレビの会見で憲法の話を受け流して答えていた小泉首相の態度は、後者の解釈です。
 今、政府を含めた大きな動きが憲法九条を変え、人の命を引き替えに国や資本を優先することができる「隙(スキ)」のある憲法にしようとしています。
 隙のある憲法からは、多くの名目のもとで、堂々と平和が蝕まれていく生活になることは世界の歴史が物語っています。
 お金や名誉を積んでも、一度失われ命は戻りません。人間には誰でも、自分の未来と現在を周りの人と分かち合う喜びがあるのです。
 「あたりまえのこと」を責任を背負ってやり通すことはたいへんなことです。黙っていて、誰かにまかせていては、大切な人を守ることはできません。
 世界中の、涙が止まらぬ思いをしている人のために、憲法九条を守り、その戦争放棄の精神と平和の実績を多くの人に広めることを呼びかけたいです。
                                 
                                              5歳の息子の母 J・T

  平和のリレー

 昭和20年6月19目の福岡大空襲のときは、私は4歳と4ヶ月の幼い子供であったが、当日夜の空襲の様子を今でも覚えている。
 焼夷弾で燃え盛る通りを母親に手を引かれて懸命に大濠公園に走って逃げた。すでに、公園の周りは燃え上がっており、母と姉と私は濠に胸までつかって夜が明けるのをじっと待っていた。ただ、冷たかった記憶が強く残っている。
 私の郷土の各都市は、昭和19年6月の北九州の初空襲いらい焦土と化し、5700余人の市民がアメリカ軍の空襲により殺された。
 私たちが水につかっていた大濠公園は、今は立派に整備され、老若男女を問わず憩いの場として市民に親しまれている。
 太平洋戦争は日本軍の中国進出を含めて15年間にわたる長い戦争であった。この戦いでは関係国の将兵にとどまらず多くの一般市民や民衆にも戦禍をもたらした悲惨なものであった。
 今、郷土に帰っても悲惨な戦禍の跡を感じることはできないが、尊い命と引き換えに摘みえた平和であることを忘れてはならない。
 私たちは、この平和というバトンをしっかりと受け止め、次の世代の人たちに間違いなくリレーさせていかなければならないと思う。
                                               
                                            S・Y

  今ある幸せが

 私も「九条が改憲されたら日本は戦争する国になってしまう」とは思っていましたが、つい最近まで実際その憲法の大切さというものを考えたことはありませんでした。
 考えるきっかけとなったのは、5月5日に開かれた「憲法を守る町田の会一周年市民のつどい・九条でCO!G0!」で、東大教授・小森陽一さんの講演を聞いてからです。
 小森さんの話はとてもわかりやすいお話で、憲法はどうやってつくられたのか、日本には他の国や国連憲章にはない『戦争の放棄』があるということなど、普段学習をしていない私にも理解することができました。
 もし日本から九条がなくなってしまったら・・・。今よりさらに軍事に税金が使われ、堂々と米軍が出入りし、自衛隊が海外へ戦争をしに出ていく…。日本が戦闘の拠点になってしまうのです。
 そのうち自衛隊だけでは足りなくなり、家族を支える父や、兄弟、恋人が、有無を言わさず戦争に連れて行かれるようになるのです。
 今ある当たり前の幸せが壊れてしまうなんて考えられますか?
 私たちの国には、『日本国憲法』という誇るべき憲法があり、私たちの幸せはそれに守られているのです。
 「憲法第九条/日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
 ここに出てくる一つ一つの言葉の意味を考えてみてください。こんなに素晴らしい平和憲法が他にあるでしょうか。憲法改正に賛成する人たちは、『憲法第九条』の大切さを知らないのです。ですから、周りの人や近所の人たち、少しでも多くの人たちに、憲法の大切さを知ってもらいたいと私は思います。
 平和は武力では勝ち取れません。平和を壊すのが武力です。
                                 
                                             倉本かおり 19歳 大学生
   
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